昭和46年11月1日に市制がしかれた、私たちの岩沼市は、さきの昭和30年4月1日に千貫、玉浦の三ヶ町村が合併して岩沼町となり、当時の人口は25,303人であって、町役場は岩沼町字町72番地に置かれた。現在の市役所は、桜1丁目6の20に所在しているが、市制当時の町役場の所在地を記念して、今旧国道4号線ぞいの農協玄関脇に「岩沼市役所始元の地」の記念碑が建てられてある。
さて、私たちのふるさと岩沼の地名の由来を古文書によって調べてみよう。
岩沼は昔、「武隈の里」と呼ばれ名取郡内の七郷のひとつであった「玉前郷(たまさきのあと)」(玉崎)に属し、古くから開けた地方である。多賀城の国府(724年)に先だって、この地に陸奥の国府が置かれ「武隈の国府」と呼ばれていた。この「武隈」の名はアイヌ語の転訛と言われている。それは阿武隈川の水神であって、今、岩沼市の対岸の亘理町逢隈田沢の水神山に祀られてある「安福河伯神社(あふくかはくじんじゃ)」につながるアイヌ語の「アブクマ」が、古文書には「阿武隈」と書いてあったが、平安の頃に「阿」の字を取り去って「武隈」となり、更に竹駒寺の先祖、能因法師にあやかってその縁起にちなんで「武隈(たけくま)」を「竹駒(たけこま)」と呼んで岩沼の地名にしたという。
しかし、その後「武隈・竹駒」の地名とまったく別名である「岩沼」と呼ぶようになったことについては2つの説が、宮城県地名考(著者 菊地勝之進)に堂々と書かれてある。
その1つは、今から4百年前の戦国時代の天正年間のことである。伊達家の家臣、泉田安芸重光が、この地に築城して「鵜ヶ崎城」と称した。このお城回りの堀が「沼」になっていて、10の沼があった上に、このお城の一角と沼とを併せて「岩沼」と呼んだといわれている。
現在の1地区町名に鵜ヶ崎があるが、この鵜ヶ崎はお城の「一の丸」にあった所であるという。
このことは江戸末期(1776年)の安永風土記の岩沼の郷の項に「往古は武隈申せし由、何年の頃から岩沼と申されしか不明であるが、御要害脇に岩沼と申す「沼」があった故に、かく言われたと云うとある。」
さて、次の一説には、平安時代末期の後三年の役の頃のことである。
「岩沼八郎」という野武士がこの地方に出没して、民家を荒らし回っていたので、他郷の名取の里人や、亘理、柴田の里人がこの名を取り、この地を「岩沼」と称したというのである。野武士がこの地の民家を荒らし回ったことは、人々にとっては大きな恐怖であったろうし、このままの話による「岩沼」の地名としては香ばしいものではないと思われる。若しこの野武士が、義侠心に富んでいたか、極端に言えば、悪さの行動が、前代未聞だったので、岩沼の地名の起因になったのかもしれない。
この両説の何れが真か、また何れの説が先か、詳らかではないが、相互に関連しているものと思われる。(齋 喜吉)
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